い草と畳表

 広島県東部は,い草のさいばいとその加工品であるたたみおもての生産がさかんであった。
 平安時代の終わりごろ(12世紀)には畳表を生産していたと考えられている。
 江戸時代になると殿様がきまりをつくり,肥料代や糸代を貸して畳表の生産をすすめはげましたり,生産技術がほかのところにもれないようにして守ったりした。
 農民は色のよい畳表を作るため「どろぞめ」をしたり,短いい草を使って「中つぎ表」をおったりした。このような努力から畳表は備後を代表する特産品となった。
 明治のころからは,さいばいきじゅつや「おもてばた」の改良が進んだ。
 さいばいでは,よい品種を選ぶこと,肥料の合わせ方,病気や虫のひがいから守ること,どろぞめの土選びなどが進められた。
 表をおる機械「おもてばた」は,「すわりばた」から「足ふみ機」へとかわり,さらにモーターで動く「どうりょくしょっき」へとかわった。
 そして「備後本口畳表同業組合」が中心になって品質を高めた。
 大正時代には,い草のさいばい面積は米麦の15%ほどであったが,金額ではい草と米麦が同じくらいだった。
 このことから,い草を畳表に加工することでお金を得ていたことがわかる。

い草のさいばい

 い草のさいばい期間は,11月下旬から12月上旬ごろ,寒い時期にはじめ,次の年の7月中旬,最も暑い時期にしゅうかくする。
 い草のさいばいは,かぶがわかれる春の気候があたたかいこと,そして大きくのびる時期に水と養分があたえられること,日光がくきの先だけによく当たること(くき全体に当たるとのびが止まり,どろがつきにくい)などの条件が必要である。こうした条件にふさわしい田は,ねばっこい土で深くたがやされて,水はけや日当たりがよく,形がほぼ正方形に近く面積が広い田である。山南では天神山の周辺に多く見られた。各農家のさいばい面積は約10アールであった。これは一番いそがしいい草のかりとり時期に家族だけで仕事ができる最大限の面積だった。また,かりとったい草で1年間足ふみ機で畳表におりあげることのできる量だった。山南のい草は,細くて長いので「ひきとおしおもて」にすることができた。

1 なえづくり

 い草のさいばいはうえこみなえを作ることから始まる。うえこみなえは田にいしょくするいなえを作ることで,田や畑で育てる。12月,本田が植え終わったら残しておいたなえをほって帰って,1かぶがくき13,4本になるようかぶ分けして,くきの長さが約15センチにそろえて押し切りでくきの先を切り,うえこみなえを作る。水はけのよい畑に,15センチかんかくにできるだけ立ててなえをならべて土をかぶせる。

2 いなえほり,いなえそろえ

 11月下旬,うえこみなえをほりとる。なえほりのときにくきがつゆや雨でぬれていると,くきに土がつくのでよくかわいてからほりとったり,前日ほりとる部分のなえの上にむしろをかけて夜つゆをふせいだりした。くわでほるときには,新芽をきずつけないよう大きくほり,軽く土を落とし,かわかないように入れ物に入れた。ほる量はその日のうちにこしらえるだけにした。いなえこさえは,くきを14,5本くらいたばにしてわらで結んで1かぶにした。たばができるとどのなえの長さも約20センチとなるように押し切りで切り落とした。できあがったなえは,かんそうしないように根を水にひたしてむしろをかけておいた。なえこさえの時期は,ほかの農作業もいそがしく,どの農家も夜おそくまで働いた。作業する土間は冷えるのでむしろをしいたり,服を着こんだり,火ばちをおいたりした。土をいじるので,手にひびやあかぎれができたり,長時間すわるのでこしが痛くなったりした。

3 いだ植え

 稲のしゅうかくや麦まきを終えてから,い田植えをする。肥料や牛のふんを田にまいてたがやして(すきこんで)から,水を入れしろかきをする。すきこみとしろかきは根がよくのびるようくきが同じようによく生長するようていねいにした。田ごしらえがすむといなえを植えつけた。長さ約2.7メートルほどの竹に約15センチかんかくでつけた目印にそって後ろにさがりながら植える。いだ植えは,寒い時期の作業であるため,寒くないよう服を着こみ,頭には手ぬぐいやほおかぶりをした。寒さのきびしい日には,たき火であたたまりながら植えることもあった。この仕事が終わると「だべおとし」とよぶ休みの日があった。

4 世話

 水かんり,草取り,肥料やり,病害虫のぼうじょ,先がり,あみかけなどがある。
 水かんりは,植え付け後から2月までは温度が下がらないように土がこおっていなえがうきあがらないように水を深めにし,3月からはかぶはりや肥料のききをよくするため水を浅くして温度を上げる。もしとちゅうで土がかわくと生長が止まったり,くきの先がかれるなどして品質が落ちるため,いつも見回った。
 草取りは,3月下旬から5月中旬にかけて3回おこなう。い草の根や芽をいためたりくきにどろがつかないよう気をつける。
 肥料やりは,4月中旬から6月上旬までのあいだにゆうきしつ肥料とむきしつ肥料をまぜあわせて3,4回に分けてやる。最後の肥料の時期が大事で,おそすぎるとかぶはりが悪くなってしゅうかくが少なくなる。さらに土に残った肥料が後から植える稲に悪いえいきょうをあたえた。
 病気には,くきにかっ色のはん点ができてかれる「もんがれ病」がある。これにかかるとふせぐ方法はなく品質が悪くなった。このため病気に強い品種にしたり,病気にかかったい草を焼いたりした。害虫には,ほうじょうといなごがある。ほうじょうはい草のくきの中を食べる。いなごは若いくきを食べる。ほうじょうをふせぐため,たばこのくきやとううん草をにたしるなどを水てっぽうでまいた。いなごはあみですくって殺した。
 先がりは5月中旬にする。これをすることで長いい草に生長するくきの芽がたくさんできる。かまを使ってくきを30から40センチほどにかりそろえる。い草はたけが90センチをこえるとたおれやすくなる。もしたおれると成長が止まるとともに品質が落ちた。このためい草の太さや色を見ながら肥料の量をちょうせつしていた。昭和37(1962)年ごろからい草がたおれないようあみを使うようになった。あみは1目が30センチでポリエチレンでできており,6月のはじめ木のくいをところどころに打ちこみあみをはり,その後生長にあわせてあみを上にあげた。

5 かり取りとソグリ

 かり取りはい草ののびやくきの色,天気のようすをみながら始めた。もし,かり取り時期が早いとたけが短く,おそくなると先がかれて,天気が悪いとかわきぐあいが悪く色が変わって品質が落ちる。このため,生長と天気をみながら作業をはじめおよそ1週間ほどで終えた。
 かりはじめの時期は,7月中旬,つゆあけのころで,かりはじめる場所は,い草のたおれている方向や色つぼの位置,ほす場所の広さを考えて決めた。作業は午後4時半ごろから始めた。家族みんなでい田に行き,かまを使って地面すれすれのところをかって,両手で持てる量で根元をそろえて1まとめにし,たがいちがいに積み重ねておいた。そしてソグリとよばれるい草を選ぶ作業をする。これは加工できないものをふるい落とす作業で,根元から約60センチほどのところにい草の先をまきつけ両手で強くにぎって,たばを左右に大きくふったり,ふりあげてひざに打ちつけたりして短いい草をふるい落とす。こうして選んだい草は根元をそろえてわらなわでたばねる。たばをおいたところには,日焼けやかんそうをふせぐためくずのい草でおおう。かり取りが終わりに近づくとい草のたばを色つぼに運ぶ。これらの作業でかり取りは男性,ソグリは女性,運びは子どもがすることが多かった。

6 色つけ

 色つけ(どろぞめ)は,くきの表面にうすいねんどのまくをつけることで,急なかんそうをふせいで,やわらかさをたもち,よい色をつけるためにした。
 色つけに使う土は,白黄色のねんどで,いかりの前に土取り場からほって帰った。草深のかしざこ,上山南の水落の土がよいとされた。土はたたいてこまかくくだき,小石などをのぞいた。
 色つぼは水のべんりなところにほった。い草をかり,スコップなどでたて2メートル,横1.2メートル,深さ0.7メートルくらいの四角いあなをほり,ほりだした土を色つぼにむけてゆるやかな坂にしながらしく。土をしいた部分は「い立て場」とよび,よぶんな色水が色つぼにかえるようにする。色つぼと反対側にはくいをうちこみさくを作りい草を立てかけるようにした。
 いかりが始まるとその日に必要な色土をホゴに入れてオオクでかついで運んだ。かりとりが終わると色水を作る。まず色つぼに水を入れて,色土を入れてくわと足でよくかきまわしてとかす。こさは手につけて指先をすりあわせたときの感じや,すね毛への土のつきぐあいで調べたり,ためしにそめてみたり,口にふくんで調べたりした。次の日が晴れならすこしうすめに,くもりならこいめにするなどこさを変えた。
 色つけは,い草を2,3たばずつ取って色つぼの中に入れ軽くもむようにしてまんべんにしみこませると同時に土が底にたまってうすくならないよう足でかきまわした。色水のついたたばは,い立て場のさくに立てかけた。色つけは夕方からはじめるために,明かりをともしてした。その日に色つけができないときは次の日にしたが,朝色つけをしたい草は色水がよくきれていないのでい草がくっついて手間がかかるのでなるべくその日にすませた。

7 干し

 い草のかんそうは,2日間でする。1日目を「なまぼし」,2日目を「あげぼし」とよんだ。
 ほすところは,山や,川原,池の土手,道路,学校の校庭など日当たりのよいところを使った。しかし,よく日の当たる場所は限られていたので場所あらそいもおこり,早くかったり干す場所と日を決めたりしていた。またこれらの干し場に運ぶのにも大変苦労していたが,昭和のはじめごろになると,かったあとにいくずをしいて干し場にする方法が広がって楽になった。
 干し場はかりとった面積のおよそ2,3倍が必要で,くいをうちこんでなわをはり,い草のたばをほどいてなわにそって広げた。作業は夜明けから始め,なまぼしが終わると朝食を食べ,あげぼしにかかった。あげぼしは夕立のときにすぐに取りこめるよう家に近い場所でした。あげぼしを広げ終わるとすぐに返しの作業を始めた。これはかわきぐあいを同じようにするための作業で,くもってかわきぐあいが悪いとなまぼしの返しを2回する人もいた。よく晴れた日には,なまぼしをうすくほし,かわきぐあいをみて細い竹でい草を上からたたいて返しの作業にかえる人もいた。色水がつきすぎたときにもたたいてよぶんな色土を落とした。
 最もよくかんそうしている午後2時ごろあげぼしを集めてたばにした(サデ)。たばね終えるとたばを運び16たばをあわせて大たばを作った。大たばは二重にまき,荷車に積んだりオオクでかついで持ち帰り,長屋の2階などかんそうした場所にしまった。これが終わるとなまぼしを集めに行き,家に持ち帰った。干し場に残っているひもは子どもが拾い集めた。サデの作業は午後4時ごろにはすませ,ちょっと休んでから,かりとりに出かけた。

8 いかりと天気

 朝,くもっているとなまぼしは広げるがあげぼしは絶対に広げなかった。もしあげぼしが雨でぬれるとまだらになったり変色してたたみおもての原料にならなくなるからだった。干しているときに雨がふりそうになると急いで干し場に行きあげぼしから取りこんだ。持って帰るよゆうがないときは近くの家ののき先に運んだ。
 いかりの期間の天気の予測は大変重要で,昔は言い伝えやかんなどにたよっていた。「汽笛が近く聞こえると雨」「ごぼうの葉が裏返ると雨」「南西から入道雲がのぼると夕立」「熊がみねにきりがおりると雨,上がれば晴れ」などで,人びとはいつも注意深くかんさつしていた。大正のころ,天気予報が伝えられるようになると役場ではそれぞれの地域のよく見える場所(山南では役場)に長い竹さおを立て,その先に旗をつけて当日発表された天気予報を伝えた。旗の色は,青が雨,赤がくもり,白が晴れを表した。昭和のはじめごろからは,にわか雨がふるという予報が出されると,学校のサイレンを鳴らした。昭和12(1937)年に広島測候所松永支所ができるとよりくわしく正確な予報が出されるようになった。

9 いかりとくらし

 いかりは短期間ではあるが重労働が続き,ふだんの生活リズムがくるったので,人びとは食事や健康かんりに気を配った。またいかりは多くの人手を必要としたので,小学校では1週間ほど授業をやめて休みになった。子どもたちは,子守りやいかりの手伝いをした。食事は短時間で調理でき栄養があるものを食べた。ごはんはふだんより米の割合を多くした麦飯で,塩魚や干し魚なども食べた。昼食と夕食の間に簡単な食事(番茶)もとった。雨がふっていかりができないときには,イカリダンゴ(ちまき)を作った。いかりが終わりそのあとに稲を植え終わると「いかり休み」をとった。この日は農作業をすべて休み1日のんびりとすごしたり,おはぎを作ったりした。

アラソさいばいとフメ

 フメはたたみおもてのたて糸で太めの麻糸を使う。農家はい草さいばいをすると同時にアラソ(麻)を作った。さいばいしているだけではたたみおもてを作るのに不足していた。そのため尾道の麻問屋から栃木県産の麻を買ったがとても高いねだんだった。さいばいが少なかったのは,アラソのかりとりといかりや稲の田植えなどの作業が重なっていたこと,このあたりでとれる麻の品質が県外のものにくらべておとっていたことが考えられている。

(参考:沼隈町誌)