沼隈町の平家伝説

八日谷と横倉(ようかだにとよこくら)

山南川の上流,入り組んだ谷合いに八日谷と横倉の地区がある。
昔,源平の合戦に敗れた平家の一団が源氏の追っ手をのがれ,安心して住めるところを求めてやって来た。途中,谷が急にせばまったところに八日とまり,ここにあった大岩を食卓に使ったという。谷にそってさらにさかのぼって行くと,道横に大岩があった。平家の武将はこの岩をめがけ「わが武運いかに」と刀で切りつけたが,刀の形を残して刀は折れてしまった。
急な道を奥へ奥へと進み,安住の地をやっとさがしあてた。この間の道は,あまりのせまさとけわしさのため,馬の鞍(くら)が横にかたむくほどであったという。
これらの言い伝えから,八日間ひそんだ谷を「八日谷」,刀の形のついた岩を「刀岩」,鞍(くら)がかたむくほどのけわしい谷のある場所を「横倉」と呼ぶようになったという。
食卓に使った大岩は八日谷の岩神さんの境内に残っている。しかし,「刀岩」は八日谷ダムの堤防の下にうまって今は見ることができない。

通盛神社(みちもりじんじゃ)

横倉の万力(まんりき),木々に囲まれひっそりしたところに通盛神社がまつられている。
この神社は,「平家の宮」とも呼ばれ,平通盛(たいらのみちもり)夫妻をまつっている。
社伝によると,建久3年(1192年)の創建とされている。美しいかざりをほどこした欅(けやき)造りの本殿には,平通盛と妻・小宰相の礼服姿の木像がまつられている。
この谷の人々は,平家の子孫といわれ,毎年この神社で祭りを続けている。この祭りは,旧暦8月13日に行われ,この日には平家のたましいがやどるという「ヘイケガニ」が能登原や草深の海岸から,山をこえて通盛のたましいにおまいりしにくるという。
ある日のこと,通盛の足にヒイル(ヒル)がくらいついた。通盛はヒイルをつまみ,「今は落人となっているが,なんじごときにあなどられないぞ」といって口を切り捨てた。それからというもの,この谷のヒイルは人の血を吸わなくなったという。

通盛が植えた一本松のあと

この神社は,約200メートルほど南(今の花しょうぶ園の近く)にあったが,江戸時代に今の場所に移され,むかし神社のあった場所は「古宮」と呼ばれ,通盛が植えたと伝えられる「一本松」もあった。しかし,今はこの「一本松」はかれてしまった。
そのほか,近くには平家の人たちが水盃(みずさかずき)をかわした「平家さんの井戸」,鬨(とき)の声をあげたと伝えられる「喜勢」と呼ばれる地名が残っている。
また,今の神社の境内には,通盛主従(主人と家来)をまつったと伝えられる五つの苔むした墓が残されている。

福泉坊(ふくせんぼう)

平家が滅亡した後,15代平秀園が一族の供養のため開祖したもので,小宰相の局の墓がある。

平通盛 平清盛の弟教盛(のりもり)の長男で,久安5,6年(1150年)ころ生まれたとされている。能登守教経は弟。

小宰相の局 藤原則方の娘で,鳥羽天皇の皇女でのちの上西門院に仕えていた。禁中(宮中)一の美女といわれていた。

赤幡神社(あかはたじんじゃ)

横倉の林に赤幡神社がまつられている。
この神社には,平家の赤幡(あかはた)がまつってある。横倉谷にある平家ゆかりの神社では,垂(しで「しめなわにつける紙」)に赤い紙を使う。また,この谷の人々は昔から源氏が白旗を使っていたことから,白を忌む(さける)風習があり,下帯,手ぬぐい,ジバンにいたるまで赤くそめたという。もちろん綿や夕顔もわざわいが起こるとして植えなかった。
ある年のこと,福泉坊(ふくせんぼう)の僧が,里人が止めるのも聞かず境内に綿を植えたところ,芽は出たが葉はちぢれいつの間にかかれてしまった。その年の秋のこと,僧は病気にかかり死んでしまったという。それ以来,この谷の人々は,ますます白いものをおそれ,この谷には白さぎさえも飛んで来なくて,白い鳥獣すべてが住まなくなったという。

鐙が峠(あぶみがたお)

横倉から福山市熊野町の上ノ原へ通じる道に「鐙が峠」(あぶみがたお)がある。
昔,平家の武将が馬に乗って峠(とうげ)を越えようとしたとき,道がけわしく片方の鐙(あぶみ「馬に乗っているとき足をかける道具」)を落とした。このことから,このことからこの地を「鐙が峠」(あぶみがたお)と呼び,落とした鐙(あぶみ)は平家の宮にまつられている。という。
このほか,平家ゆかりの地として,弓の練習をした「弓場」,弓の的(まと)を置いた「的場」(まとば),馬に乗って越えた「乗越」(のりこし),「見張所」(みはりしょ),や「御方の前」(おかたのまえ),「馬通」などの地名が残る。

(参考:沼隈町誌)