沼隈町のはねおどり

 このおどりは、沼隈半島に伝わる民俗芸能で,楽器を打ち鳴らしながら大地をふみしめたり,とびはねたりするおどりである。
 おどりのはじまりは明らかではないが,江戸時代以前からおどられていて,福山の殿様(水野勝成)すすめはげましたことからさかんになった。
 水野勝成は,はねおどりが元気をだすことから戦いのときはげまして勇気を出させることにつごうがよく,楽器が戦いのときに使うたいこやかねににているとして,沼隈郡の村々に「しょう」や「こ」をあたえ,雨ごいや虫送り,神社の祭りなどのときにおこなうよう命令したと伝えられている。
 このおどりは,「わかれんちゅう(若者)」「青年会」と受けつがれた。
 明治33(1900)年には松永塩田調査所においでになった小松宮彰仁親王の前でおどり,「沼隈おどり」と命名された。
 大正時代になると地区ごとに青年団の団員が神社でおどった。
 その後神社でのおどりに引き続いて小学校で地いきの人たちに見てもらう「大はね」をはじめた。
 昭和になると,午前中それぞれの地区の神社でおどり,午後に村の神社でおどるようになった。
 山南や能登原では8月1日におどることがふつうになって,近くの村からもたくさんの見物人が来た。
 このほか,町外でおどることも多くなり,大正10(1921)年には鞆の沼名前神社,昭和3(1928)年には広島産業博覧会,昭和6(1931)年には沼隈郡青年大会,昭和11(1936)年には東京の郷土舞踊大会でおどった。
 これらの行事でおどるようになったことから,衣装も白の浴衣と白はちまきになり,中おどりでの口上も長くなっていった。
 戦後は,山南村の若者だけが続け,昭和27(1952)年には山南村のはねおどりが「沼隈おどり」の名で広島県無形文化財とされ,昭和34(1959)年からは「はねおどり」の名で引き続き広島県無形文化財とされている。

 おどる人は,白の着物にたすきがけ,「てこう」と「きゃはん」をつけて「わらじ」をはき,手には楽器か棒とうちわを持つ。
 棒は「おにぼう」とよび,長さ約1.5メートルほどの竹に色紙をはってかざったもので,うちわもこの5色の色紙をはってかざる。
 楽器には,「しょう」「いれこ」「おおど」があり,「しょう」は直径約20センチの皿のようなかねで手にさげてつちで打ち鳴らす。
 「いれこ」は直径約35センチほどのしめたいこで,おび布で首にかけて胸に結び2本のばちで打ち鳴らす。
 「おおど」も直径約75センチほどのしめたいこで,おび布でかたにかけてわきにかかえ,桐のばちで打ち鳴らす。
 地区でのおどりは,五六人の人が楽器を持ち,ほかの人は「おに」とよばれるおどりてでおにぼうとうちわを持つ。
 この中の一人は「おにがしら」とよばれるしきしゃでうちわと色紙でかざった長さ約60センチほどのしきぼうを持ち,これをふりながらかけ声をかける。
 おどりはまず,昼前に地区の神社に集まり「道行き」を打ちながらならぶ。
 そして「セグリ打ち」をして「宮めぐり」と「さんまいど」を3回おこない,「本おどり」「中おどり」をして昼食をする。
 昼から,「おにがしら」を先頭に「おに」「しょう」「いれこ」「おおど」とならんで「道行き」の拍子でぼうを前後にふりながら村の神社に行く。
 とちゅう,ほかの地区のはねおどりと出会うと「打ち合わせ」とよばれる拍子を打ってあいさつとした。
こうして村の神社に着くと,ほかの地区のはねおどりを待ち,そろうと「セグリ打ち」から「中おどり」までをした。
 つぎにみんなでならんで小学校へ行き,たくさんの人が見る中「宮めぐり」と「さんまいど」以外のおどりをおこなった。
 小学校でのおどりが終わると「すえ打ち(道行きとおなじ)」をしながら分かれ,地区へ帰っていった。

参考文献「沼隈町誌」「備後表の記録」(沼隈町教育委員会)