6年生の歴史の授業を見ました。
時は、鎌倉時代。
その中の「元」が2回目に日本に攻めてきた
「元寇」の勉強でした。
下の写真は,元の攻撃に備えて作られた
元寇防塁という石垣です。
そして,この勉強の目当ては、
福岡県に「元」の襲来に備えて作られた
「元寇防塁」という石垣があったのにも関わらず、当時の「竹崎季長」という武将は、なぜ元軍の船に行ってまで戦ったのか?」
子どもたちは、いくつかの資料をもとにその答えを考えていきました。
多くの子どもたちは、「恩賞をもらうため。」という結論を考えていました。
その理由としては、
・「御恩と奉公」の関係があり、命がけで戦い、戦果を挙げたら「恩賞」をもらえるということがあるから。
ということが挙げられていました。
ある子は、
「別の資料から4400隻の艦船で攻めてきて、さらに兵士の人数も元の方が多いのに、なぜ船の上での戦いに行ったんだろう?」
それに対して、
「1回目の「元寇」の時に、なかなか恩賞がもらえず、生活に困っていたから。」
と,また別の資料から考えを出していました。
そして、この戦いの結末の
暴風雨で元は去っていくこととなったということを教えてもらったときには、
「ええっ。2回目も暴風雨?!」
・・・でも、そうらしいのです。
結果として勝ったのですが、
恩賞の中心の「領地」は・・・
当然のことですが、
自分の国、日本を守ることはできたのですが、
戦った相手が、元ですから領地は・・・
その結果、「御恩と奉公」の関係で成り立っていた鎌倉幕府は、その関係を維持することができなくなり・・・
「時代の状況が変化することで、国の状況も大きく変化する」という象徴的な出来事だったのだと思えました。
この学習をした6年生の子どもたちは、複数の資料をもとに、特にグループでの話し合いをがんばっていました。