学校紹介Introduction

郷土の偉人「山本瀧之助」


「青年の父」山本瀧之助


 明治6年11月5日,瀧之助は,現在の沼隈町大字草深の農家に孫次郎・サタ夫婦の長男として生まれました。山本家には,3反足らずの田畑しかなく,生活はけっして楽ではありませんでした。

 13歳で草深校を卒業した瀧之助は15才で役場の雇いとして働きはじめました。当時,日本は帝国憲法の発布と帝国議会の開設を目前にひかえ,わき立つような国づくりの熱気の中にありました。その中に身を投じようと,上京して勉学の道を志した瀧之助でしたが,両親の反対の前に実現しませんでした。しかし,役場の仕事の中で接する都会の動きに瀧之助はあせりと疎外感を感じ,一度あきらめたはずの都会へのあこがれは募るばかりでした。

 16才の夏,ついに心は決したのです。上京して勉強したいという熱い気持ちを東京の知り合いに送りました。しかし,手紙の返事を待っている間,瀧之助の一生を決める事件がおこりました。役場の仕事を止め,職のなかった瀧之助に父が学校の仕事を見つけてきたのです。瀧之助は切々と自分の上京の決意を両親に訴えます。しかし,父が重い口を開きます。「志はかなえてやりたいが,今の生活では,悲しいがかなえてやれない。父母共に年をとって頼りにならない。こらえてほしい。」父の言葉に返す言葉もなく,優しさゆえに瀧之助は村を出ることを断念します。

 めまぐるしく変化を遂げる都会への熱い思いをずっと胸にしまい,沼隈郡第十四尋常小学校の教員として,家から学校に通う日々が始まりました。

 当時,尋常小学校を卒業した若者は若連中というグループに入り,タバコや夜遊び,大酒,ばくちなどにうつつをぬかしていました。せっかくの学力も卒業して1年もすると,全く失われていったのです。都会での立身出世を夢見て,自力で勉強した瀧之助にとって,彼らの無気力な行動は見るに耐えません。「このままでは田舎にいる若者は都会の若者からどんどん引き離される。自分にはチャンスがなかったが,ほかの多くの若者にはまだ可能性が残されている。彼等に,夢と何かに挑戦する気概をあたえたい。自分の果たせなかった夢を叶えてほしい。どうすれば彼等を救えるのか。」思い悩み考えた末に瀧之助はある結論を導き出します。

 明治28年,瀧之助22才,年頭の日記に田舎青年の道しるべとなる本を執筆することを記し決意しました。当時,彼は目の病気で苦しんでいましたが,それでも机にかじりつき,寝食も惜しみ,命がけで原稿用紙にむかう日々が続きました。

 1月3日に執筆を始め,年も押し迫った12月30日までおよそ1年を費やして,瀧之助が全身全霊を傾けた『田舎青年』が完成します。「均しく是,青年なり。・・・・・・・・全国青年の大部分を占めながら,今やほとんど度外視され論外に置かれたる青年なり。」162枚に及ぶ原稿の中で瀧之助は都会の学生も田舎の若者も均しく青年であり,日本の中核はこれらの青年が担っていること,そして田舎が日本の根幹であり,そこで生活する若者の健全な育成こそが日本の発展に寄与することなどを強く訴えました。しかし,原稿は完成したものの出版のめどがつきません。

 明治29年5月,大阪で千部を自費出版する所までこぎつきましたが,出版費用の80円がありません。当時の瀧之助の月給はわずか5円だったのです。結局,息子の夢を叶えるべく,父,孫次郎が血のにじむ思いで守ってきた田畑を質入れして,本が完成しました。出版後の反響はかんばしくなく,瀧之助は日記の中で「・・・今に片付かざる由,80円を棒に振れ,バカなことをしにけり」と落胆しています。

 翌30年,売れ残った106部が瀧之助に返品され,質入れした田畑は他人の手に渡ってしまいます。しかしこの逆境の中,瀧之助の活動に注目する人物が現れました。新聞「日本」の記者五百木良三です。彼は新聞「日本」の紙上に,好意的な評論を掲載し,田舎青年に限らず青年全般に読んで欲しいと,瀧之助に励ましの手紙を送ります。新たな後ろ盾を得た瀧之助は,このころ母を失った悲しみの中にありましたが,「田舎青年」の発刊により一躍青年運動のリーダーとして押し出されたのです。

 明治34年,瀧之助28才の時,ついに上京を果たし長年の夢を実現します。1年後,帰郷した瀧之助は地元沼隈の地で,青年運動の雄たけびを上げたのです。まず,「沼隈時報」を発刊,千年村青年連合会を設立,そして,「地方青年」の出版など精力的な活動を展開します。

 明治39年,沼隈郡長の協力をあおぎ,沼隈郡青年会を設立し,翌年,第1回沼隈郡青年大会が多くの若者の参加を得て,盛大に開催されました。

 明治43年4月,この活動を基盤に,名古屋でついに全国青年大会が開催されたのです。「田舎青年」の執筆を決意し青年の地位向上にまい進した15年の月日は,ここに一つの頂点を極めたのです。

 明治44年,瀧之助は沼隈郡立実業補修学校長となり巡回講師も兼務することになりました。実業補修学校とは本来の学校教育でなく,学校に通っていない人々に学習の必要性を説き,学習の機会を与える学校です。現在の社会教育,生涯学習の始まりでした。瀧之助は常識カルタなどを使って,道徳や常識がより簡単に理解できるように工夫しています。様々な活動で瀧之助は持ち前のユニークな発想と行動力をいかんなく発揮していきます。また,いまだに全国的に活動が続いている「一日一善」運動も普及させました。

 大正13年,瀧之助は全国巡回青年講習所の講師となり,昭和5年までに120回1都2府36県で講習会を開いています。瀧之助は延べ五千数百人の若者と人生を語り合い,参加した若者一人一人に励ましの言葉をかけたのです。3日~5日の間,寝食を共にした講習生と瀧之助は多くの手紙のやり取りで,その関係を一生涯続けていきます。手紙のやり取りは単に瀧之助と教え子のつながりだけではとどまりません。瀧之助は同じ悩みを抱える青年同士の文通を進めます。こうして瀧之助を中心に全国の青年同士のネットワークを確立し,青年たちの孤独感を打ち消し,勇気を与え,「青年の父」と呼ばれるようになったのです。

 昭和6年,瀧之助は享年58才という若さで,千年村の自宅で亡くなりました。彼は生涯を通じて若者に語り続けていきました。

「一歩退いて人を待つ優しさを持ちなさい。一歩進んで事にあたる勇気を持ちなさい。」この教えは現在でも私たちが最も大切にしたい格言です。

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